2020年12月29日

マキシミリアン1世とハプスブルグ家

オーストリアへ旅した時のこと。

ウィーンを離れて、インスブルックという街を訪れた。
飛行機で1時間ほど飛ぶと、段々とチロルの山々が近づいてきて、狭い谷がアルプスへ
向かって登ってゆく、その谷間にインスブルックはある。チロルの州都である。

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友人と二人、行き当たりばったりの観光をしたのだが、ある建物の2階の室内から、
何とも壮麗な構造の教会内陣が見おろせた。

手前に豪華絢爛たる棺、両側には黒い等身大の彫像がズラリと並んでいて、こんな
山の街の教会には似つかわしくない。誰もいないし。
しかも、すぐ下に見えたのに、その時いた建物内からはどんなに探しても行けないのだ。

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何なんだ、これは。
それが、マキシミリアン1世との出会いだった。
いや、墓との出会いでしかなかったのだが、それが、この中世の武人について知り、
関心を寄せるきっかけとなった。

一度外へ出て、「王宮教会」という隣の建物に入ってみる。
すると、あの場所へ行くことができた。
すぐそばで見れば見るほど、圧巻の装飾である。

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これは、15世紀の後半を生きた、ハプスブルグ家中興の祖、マキシミリアン1世の
墓であった。
とはいえ、世界史には疎い私ゆえ、その時にはハプスブルグ家の全体像はよくわからず、
帰国してからのにわか勉強でようやく理解出来たのであるが。

彼が生前築いたこの墳墓には、当地の市民の反対で遺骸を葬ることがかなわず、
別の場所に本当の墓はあるらしい。莫大な借金がその理由だと言われる。


また、近くにある「黄金の小屋根」という観光名所には、市街地を見守る彼と共に二人の
妻が描かれている。そのうち一人の下には小さなフクロウの絵があり、それは、
当時すでに故人であることを示すのだという。


 それが、愛妻マリアである。
彼らは政略結婚という、貴族にとっては当然であった結びつきをしたのだが、
言葉も通じないのに出会った瞬間から惹かれあい、まことに夫婦仲は良かったと
いう。

 マリアは、織物で繁栄していた、フランス東部からベルギー・オランダを統治した
ブルゴーニュ公国の跡継ぎであった。


突進公と呼ばれたマリアの父が若くして戦死すると、その国を奪おうと目論む輩が
虎視眈々と、うら若い跡継ぎ娘を狙い始める。
フランス王はその先頭で、マリアを妻にしてここをフランス領にしようとしていた。
困惑しきったマリアは、遠いオーストリアの、顔も知らぬ婚約者に手紙を書いて救いを
求めた。
しかし、神聖ローマ皇帝とは名ばかりで、財力のないマキシミリアンの父は、軍勢を
集める金銭の工面にも苦労したらしい。
ハプスブルグ家とは、当時そのような家でしかなかった。

幸いにも、駆けつけたマキシミリアンは無事外敵を追い払い、二人はその地で
結婚した。


二人の間に生まれた息子がやがてこの国を引き継ぎ、当時のヨーロッパでもっとも
豊かであった領土を手に入れた。
これが、オーストリアの小さな領主に過ぎなかったハプスブルグ家の、その後の繁栄の
基礎となる。


残念ながらマリアは25才で2児を残して突然亡くなる。落馬による事故死であった。
マキシミリアンは晩年に至るまで、妻マリアがいかに優れた女性であったかを
語っていたという。

 
その後ハプスブルグ家は、戦争と子女の婚姻政策とによって、20世紀初頭まで続く
ヨーロッパ一の王家になっていく訳であるが、その基礎を築いたのは
マキシミリアン1世である。
 娘と息子をスペインの王子王女きょうだいと2重結婚させ、孫娘と孫息子はボヘミアの
王子王女と、またもや2重結婚させることにより、スペインとチェコ・ハンガリーを
手に入れた。 


 この時代のスペインは強大で、やがてアメリカ大陸に植民地を建設し、ハプスブルグ家
は太陽の沈まぬ帝国となってゆく。
エリザベス女王が無敵艦隊に勝利する前夜の時代である。


彼は、広大な領土を手に入れても、そこに住む人々の言葉や文化を統一しようとは
しなかった。そのことは代々受け継がれており、そのような緩やかな政策をとったことが、
長く続く帝国を維持できた秘訣であったかもしれない。


また、中世最後の騎士と言われた彼は、信仰に基づいて約束や信義を大切にし、
これは子孫にも代々受け継がれてゆく。そのために、痛く裏切られたことも再三あったの
だが、それにもかかわらず統治が長く続いていったのは、逆にそのことのためではないか。


 しかし、19世紀になって民族運動が盛んになると、言語がバラバラであったことは
裏目に出る。独立の機運をとどめることは不可能で、20世紀初頭、ついに
ハプスブルグ帝国は滅んでしまうのだ。しかし、700年にも渡り継続した王朝は、
ヨーロッパには他に存在しない。


 チロルは山国で、そこに住む人々は保守的で頑固らしい。
中心街のお店を見ても、華やかなファッションよりも堅実な服が多く、ドイツ的である。
小石をオーブンで温めて袋に入れ、お腹を温める「カイロ」のようなものが
子供用に売られていたが、ホッカイロなんて発想はしないのだろうか。


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短い夏が終われば、雪に閉ざされた長く暗い冬が来る。
不自由な生活にずっと耐えてきた人々。
その中で鍛えられた我慢強さや思索の力は、温帯の海辺に暮らす私たちとは
ずいぶん違っているのではなかろうか。
がっしりした造りの家具はみごとで、数百年経っても狂いのない堅牢なつくりと見えた。
こういう技術が今も継承されているのかどうか、気になるところである。

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家庭で作られた宗教的な装飾品は、優美というより土俗的で、山岳地帯らしい
素朴な信仰心を感じたのだが、残念ながら撮影を忘れていた。


 マキシミリアン1世の暮らした15世紀、いかなる暮らしがオーストリアという山国で
営まれ、その中でヨーロッパに広く打って出る心性が彼によって養われたのだろうか。
 ブルゴーニュ公国へ結婚のため赴いて、その発展ぶりに大変驚いた、という記述が
あるそうだから、その時に飛躍の心が生まれたのかもしれない。

 そうでなければ、この山に囲まれた狭い空のもとで暮らしていて、雄飛の野心が
生まれるとは思い難いのだ。

なんにせよ、このインスブルックで私は大いに心が躍った。
世界の新しい動向などに構わず、自分の暮らしを守り続けているように見える人々。
 白い雪を頂いた山々。
 山に囲まれたこの小さな谷間から、広いヨーロッパに出て行ったかつての英雄。
思いに耽るうち、音もない夜半の雨に通りは濡れて、
窓から見下ろす石畳に、お店の灯りが写っていた明け方の光景。


晩年のマキシミリアンは画家のデューラーを保護した。
そのデューラーの筆になるマキシミリアンの姿。

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そこから伺われるのは、多くの試練や忍耐を経験した人の、はるかに人生の向こうを
見つめている視線である。


手にしたザクロは、「内面の豊かさ」を表すという。


2018年08月27日

宝満山へ

暑い。

今日も37度の予報が出ている。

しかし9月の連休に北アルプスへ行く予定だ。 山へ行ってトレーニングしなければ。

前回の山では、へとへとに疲れた。 心もとない。

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こんな暑い日は、宝満も人が少ないのではないか、そう思って出かけることにした。

九重へ行けば涼しいのは分かっているのだが、往復4時間はもったいないし、筋力を

鍛えるには宝満の、あの石段が効く。

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登り始めから1時間は、高温と多湿で猛烈な汗である。

左耳から右耳へぐるっと後ろ回りに、髪の毛が水をかぶったようになっている。

シャツの、胸から下は色が変わるほど濡れた状態。

まぶたを伝う汗が目に入ると痛いので、その前にぬぐわなければ。

小さなタオルで拭ったあと、胸のポケットにしまうのだが、気づくとポケットまわりまで

タオルの濡れが移って、変色している。


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ここまで汗まみれとなると、かえって爽快である。

いつも休む水場が見えてきたが、ザアザアという水音がしない。

切ったパイプから流れ落ちる水は、今までになく細くて、水枯れ寸前である。

山も、この酷暑には参っているのだろう。

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百段ガンギ。

修験道の山らしい、この雰囲気が好きである。


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朝食を摂っていないことを思い出し、コンビニのおにぎりを食べた。

お陰でちょっと元気が出て、石段の段差も、避けずに大きく越えていく。

大腿筋を鍛えなきゃ。

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半ばを過ぎると、汗を出し尽くしたのか高度とともに気温が下がったのか、身体が落ち着いてくる。


とともに、樹林の登りが終わって変化のある道となり、ここから山頂は遠くない。


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辛さを慰めてくれる、ホトトギスの花。

樹林で聞こえていたソウシチョウのにぎやかな声が、いつしかシジュウカラの静かな声に

変わっている。

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大石の間からぽっかりと出て頂上へ登る。

このあっけなさは、いつも楽しい。

登り切った山頂には、夏の終わりを告げるトンボの群れがおり、黄色と黒のまだら模様の

大きなオニヤンマがその間を行き来していた。

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夏と秋のあわいの、青い空と白い雲。

標高800メートル台でも十分に涼しい。  

結構な人数が休んでいて、自分の脚力だけでここまで来た人々の誇りと、自然が穏やかな

時に見せる、いつもの平和が満ちている。

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私のザックには、2リットルのペットボトル。

2本入れるべきだが、1本で止めたのは自信の無さにほかならない。

次は2本。 

しかしこんなで、9月は大丈夫なのだろうか?


                                                                


2018年04月11日

地島へ

昨年の相島に続き、玄界灘に浮かぶ地島へ行った。

この機会を逃せばおそらく行くことはないだろうと、風邪気味なのを押してだ。

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相島とは違って、観光客は少ない。

このあたりは、古代の名族、宗像氏(胸肩とも)が治めた土地で、宗像大社から沖ノ島

まで島づたいに社(やしろ)が続き、沖ノ島からは多くの古代祭祀品が出土して、

世界遺産候補となっている。

船が出るのも、神湊(こうのみなと)という、由緒ありげな地名。

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玄海の波は荒いが、すぐに着く。

上陸しても、周りに店も自販機もない。 民家と陸揚げされたタコツボが並ぶ、正真正銘

の漁港である。

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島一番のピークを目指して歩く。 やがて登りだす。

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登り詰めるとあたりは椿の林で、なんとも心休まる。

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山道にこぼれた椿の花が美しい。  いい時期に来たようだ。

ピークからは、真っ青な海が見えて、綺麗だね、と言い合ったが、さしてきびしくもない

登りだったから、感動もさほど大きくないのが残念といえば残念なことで。

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お昼ごはんはまだよ、と叱られて下りゆけば、椿ロードと名付けられた山道にも

落花赤く映え、島はひっそりして、私達だけのもののようだった。

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下り切ると、初めて人に会う。

バイクの男性で、この上の道は倒木が多いから行かない方がよい、と教えてくれた。

以前は自分たちで椿ロードの手入れをしていたけど、大変なのでなかなか手が回らなく

なったのだという。

仕事のかたわらのボランティアだろうから、それも当然のことだろう。

「上に祇園様というお社があるようですけど」と尋ねると、お祖父さんの頃にはみんなで

お参りしていたものの壊れ、その後お父さんが自分で作った社を上げたが、今はまた

古びてしまって、お参りも行き届かないようだ。

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島のこととて、すべてを地元の共同体で行ってきたのだなあ、と感じた。

だんだんに若い人は島を離れているだろうし、共同体での維持は難しいのだ。

別れる時にバイクの荷台から、採ったばかりのハッサクを出して2つくれた。

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小さな旅ではあるが、こうやって人情に触れるのは楽しい。


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島の先端に到達して、ようやくランチとなる。

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もう来ることもなさそうな、この場所からは宗像大島へ続く海が広がり、

絶景を楽しみながらの楽しい時間だった。

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早い時間に帰宅できたので、久しぶりに山菜の天ぷらを作った。

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サヨリの干物も美味しい。

良い季節だ。


2018年03月19日

ハイタカの季節

ハイタカの季節となった。

この冬はとても寒くて暖かくなるのが待ち遠しく、北国の人の気持が分かったような

気になったものの、その後は急速に気温が上がってやっぱり九州である。

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さて、大好きなハイタカの渡る季節を迎え、小山に登る。

風の強い日には足もとを飛んでゆくと言うので、強風をついてやってきたのだが、

聞いた通りであった。

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まず、向こうの尾根筋を飛んでくるという、お決まりのコースなんて取らない。

横ぎわの藪の向こうにスイッと出たと思ったら、たちまち足もとをかすめて崖下に消える。

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この繰り返しで、カメラはあっても役に立たない。

ピント合わせ以前に、視野に入れることができないのだ。

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珍しくファインダーに捉えた。

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トリミングしてみた。黒っぽい個体でかっこいい。

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8分の1秒後のコマ。

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 分かりにくいかもしれないが、ピンボケ。

わずかの間にすごいスピードで移動するので、ピントがずれてしまう。

しかも今日は強風にあおられて、さらにスピードアップ。 それゆえに面白い。

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足もとにくると撮影は諦めて肉眼で追うしかないが、背中の色が様々であるし

崖下に消える際に尾羽の裏側が見えたり、ひらひらと蝶のように舞う姿が美しくて、

ハイタカ好きとしてはたまらない。

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これをただ一人小山の頂でやっているのだから、自分は変人であると思う。

しかもいい年をしていて、変人度はかなり高そうである。

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少しづつ、風の勢いがゆるくなってきたと見えて、空中を飛ぶものが増えてきた。

こうなると楽で、撮影ができるようになる。


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写真としてはつまらないが、横からの姿。

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風にあおられながらの飛行。 目の上にある白い眉斑が後頭部でつながっているのが

分かる。

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緑の山がバックになると、ピント合わせは難易度を増す。

コントラストがはっきりしないと、レンズのオートフォーカスはうまく機能しないのだ。

レンズの真ん中に飛ぶタカを入れながら、ピントが合う瞬間を待つ。

合った、とその瞬間にシャッターを押すが、コンマ数秒の違いでずれてしまう。

手動で合わせられるほどには熟練しないので、機械に頼るしか能がない。

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あああ悲しいなあ、能がないなあ、と心でつぶやきながらのタカ見である。

まだまだ、シーズンはこれから。

   

2018年01月16日

人生の終わり方

幼なじみのお父さんが亡くなった。

92才、というより、あと数日で93才。

入院もしないままの自宅での死であり、天寿全うであろうが、多少の残念さが残る。

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その日はめったにない飲み会参加で、幼なじみ(男性)は玄関ではなく裏口から帰宅

した。

翌朝、玄関に行ってみるとお父さんが倒れていた。

すぐに救急車を呼んだが、もう息はなかったようで、救急車が警察へ連絡。

そのあとは、警察の調べがあって「犯人扱い」だったとか。

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無理もない状況ではあるが、彼は、目が悪くなった一人暮らしの父上を案じ、東京に家族

を残したまま単身実家へ戻って、6年ちかくも面倒をみてきているのだ。

息子と水入らずで晩年を過ごせた父上は、きっと幸せだっただろうが、最期の日に

限って息子は留守で、独り冷たい玄関で亡くなることになってしまった。

夕方の戸締りにでも行かれたのだろうか。

むろん、息子である彼自身の落ち度では全くない。 あまり飲んで帰ることは

ないんだ、と常々言っていたから、断れなかったのだろう。

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誰のせいでもない残念なことであり、私の思いもそこに残る。

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私の母も、仏壇に供える水仙を取りに出た庭で転び、骨盤骨折。

戸口までは這って帰ったが、その先には進めず、帰宅した私が扉を開けるまで

倒れていた。

猫が大声で鳴き続けるので、不審に思いつつ家に入ると、倒れた母が目に入った。

その衝撃。

救急病院に入院して、そのまま1年後に亡くなった。85才であるから、

長命のうちではあるのだが、私の後悔は、1年の間に2度しか帰宅させて

やれなかったことである。

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友人の父上は、その後の解剖で、倒れた拍子に肩を強打・骨折して内出血したことに

よる、出血性ショックだった、という事実が分かり、彼は「犯人?」から「孝行息子」に

戻ることができたが、通夜では疲れた表情を見せていた。

まあしかし、現代では幸運な亡くなり方の部類には入るのだろう。

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若い頃は、生きていくのが難しく、年老いれば、死に方が難しい。

常に問題を抱えながら生きていくのが人間である、と言ってしまえばそれまでであるが、

人生を生き抜くのは、なかなかに困難だと思う。


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2017年12月12日

色川 武大

沈鬱な冬がやってきた。

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太平洋側とは違って、福岡の冬は晴天が少なく、どんよりと曇っていることが多いのだ。

山へ行きたいが、天候に恵まれない週末が多く、仕方なく家に沈潜して読書となる。

以前読んでいた伊集院静の流れで、色川武大を読んだ。

阿佐田哲也という別名で「麻雀放浪記」を書いていて、そちらも有名である。

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とても優しい人だったという作家仲間の評判がある。

伊集院氏は、共に旅をしながら競輪をやる最中、子供の頃より悩まされた幻覚症状に

襲われ、色川氏に救われて完治したと書いている。

優しいだけで、人を危機的状況から救えるとは思えない。何か激しい所を過ぎ越した、

そんな経験を持った人ではなかったのか。

誰からも慕われる、卓越した優しさを持っておられた、その点について知りたいと思って

「麻雀放浪記」にいたるまで何冊か読んでみた。

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どうやったら人間は、そんなに優しくなれるのか。

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育った家庭の厳格な親子関係、つまらぬ事で停学になって上の学校へ進めなかったこと、

体格的なことからくる劣等感、そこに戦後の社会環境も加わって、

賭け事で身を立てるしか自分にはないと考えつめ、時には地下道で寝たり

勝って殴られたりもする「無頼」の生活を送り、怒涛の青春を過ごしてきた人である。

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「誰にも愛されないってことは、かなり辛いことなんだな」と作中にある。

「一番烈しい生き方は、誰にも馴れずに生きることでなあるまいか」

賭け事が生き方ともなる人にとっては、ひりひりするようなその最中こそ、燃焼する生を

実感する、ということなのだ。

誰にも馴れず、一人博打で生きようと、戦後の混乱の中で身すぎしてゆく。

そのような人は、その頃ほかにも居た。

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「獣みたいに他人の喰い残しを突っついたり雨風ん中でも一人ですごさなきゃいけねえ。

だが月給取りにあんなすばらしい晩があるか」

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人一倍繊細な感受性を持った上での無頼な生活とは、どういったものだったのだろう?

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後年、「離婚」で直木賞を取る。

たまたま、受賞直後に単行本となったこの本は読んだが、その時の私の好みでは

なかった。

今いくつか作品を読むと、その表現の的確さというか、本質への細やかな迫り方、

寄り添い方、表現力に凄さを感じる。

悩み抜く経験なしには書けないであろう、文章力である。

その、悩み抜いた欝々としたものを感じ取って、若い頃の私は不健康なものを

忌避したのだと思う。

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氏はまた、ナルコレプシーという病にも悩まされており、何かやっている最中にでも

突然深い眠りに落ちて、しばらく目覚めなかった。

病気からくる幻覚もしょっちゅうで、「ゆうべ寝ていたら、キリンが次々に身体の上を

通っていった」と言われた佐藤愛子は、返事のしようがなかった。

健康な人には理解できない辛い経験をしていることに、劣等感に人一倍悩まされたことが

加わって、誰にでもこの上なく優しいと言われる人柄を作ったのではないだろうか。

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人には理解して貰えぬ、従って口にすることもない様々な種の苦しみが、

この人を優しくした。  その優しさで救われた人がいた。

すごいなあ、人間って。

読後感はそれである。

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また麻雀放浪記の最後で、登場人物に「一人で博打を打って気ままに生きたいのさ。

俺みてえな人間は、どこかのやくざの組織にでも入って辛抱すりゃ、その方が出世する

かもしれねえが、合唱はしたくねえんだよ。 合唱しねえんだったら意地は張り切れねえ

よ。  世間から逃げ出すことだよ―」と語らせている。

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戦後すぐの時世とはだんだんと違ってきて、豊かになり始めた社会に、単独で博打を

打って生きる人間の居場所はなくなってくる。

やくざの組織に入って生きるしかなくとも、それを拒んで一人生きてゆきたい人間は

どこへ行けばいいのか。

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昔は、雲水となって放浪する生き方もあった(例え命の危険と隣り合わせであっても)

が、今の世で、そういう欲求を持った人はどうして身を保つのか、そう思いつつ本を

閉じた。


2017年11月06日

猫の島

博多湾の外側に浮かぶ相島(あいのしま)は、最近猫の島として売り出している。

テレビ「ダーウィンが来た」や、プロ写真家に取り上げられたことからだろう。

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友人から、猫を見つつハイキングしませんかとの誘いを受けて、秋晴れの休日、

フエリーに乗った。 下りると早速まねき猫が迎える。

以前は、春秋の渡りのシーズンに珍鳥を求めて来ていたが、その頃は漁港と人家以外

何もない島だった。

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今は、船着き場のすぐそばから、こういう光景が見られる。

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やってきた猫好きには、若い人が多い。 どうやら外国人のグループもいるようだ。

堤防で釣りに興じる渡航客の傍らにも、猫が控える。

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少年と猫のシーンを何枚か撮らせてもらった。

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港付近で猫と戯れる人々をあとに、私たちは島めぐりに出た。

ここは大した傾斜もない島で、それゆえに珍鳥も見つけやすい場所なのだが、逆に

楽すぎて体力作りには向いていないかな。

ゆっくり登っていくと、黒田藩が海上警護に使っていた小屋跡や、秀吉の朝鮮攻めの

際に石を運び込んで祈願した場所など、長年福岡に住んでいても知らなかった史跡が

続く。

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景色の良い場所を見つけて、昼食兼酒盛りである。

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10月は天候に恵まれなかったが、その埋め合わせをするかのごとき快晴である。

青い海を見ながらの食事は、みなさまざまのことを忘れて、心広びろと。

準備も手馴れて、段ボールのテーブルに、酒器セット持参。

昼寝したいね、この青空だもの。

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心地よくなって港へ下りると、あまりに多い客に、フェリー積み残しとなる。

臨時便も1時間後で、仕方なく列を作ったまま座り込んで待つが、この間にも猫たちが

やってきて、愛嬌を振りまく。

「猫の接客だね」 「おーいニャンコさん、1番テーブルに来てよ」

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まあ、実際には、食べ物を貰えるからなのだが。


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