谷川岳追想
いつかある日 山で死んだら
古い山の友よ 伝えてくれ
母親には 安らかだったと
男らしく死んだと 父親には
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この歌は、深田久弥訳詞で、ヒマラヤで遭難死したフランス人登山家の詩がもとになって
いる。
ちょっとセンチメンタルな詞とメロディーで、高度成長期に山を目指した、ロマンを
求める若者の間ではけっこう歌われていたと思う。
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東京へ行くことがあったので、谷川岳へ登ってみた。
ロープウェイを使ったお手軽登山だが、谷川の頂上に立つのは数十年振りで、
はからずも過去の事をさまざま思い出す旅となった。
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友よ山に 小さなケルンを
積んで墓にしてくれ ピッケル立てて
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5番はこのような歌詞であるが、属していた山岳会で3人が同時にアラスカの山で
亡くなることがあり、追悼のためにここにケルンを積んだのだ。
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私もその頃は体力的に充実していたが、ザック一杯の大石を背負っての登山は
かなりきつかったと記憶する。
急傾斜で有名な尾根を、何時間か掛けて登った。
石の角が背中に当たり、痛い思いが続いた。
皆で背負ってきた石を集め、セメントの粉を水筒の水で溶いて固めた。
持参したワインかウィスキーをかけたような気もする。
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あのケルンはどうしたかしら、と見まわしたが、たくさんあったはずのケルンは一つに
まとめられ、巨大な石の山となって、その頂上に石の祠が置いてあった。
ここは魔の山、と言われたほど、一ノ倉沢での事故が多かった山である。
岩壁の登攀中に転落したり滑落したり、多くの若者が亡くなった。
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アラスカでの事故のほかにも、合宿中に亡くなった大学の後輩、山岳会の後輩たち、
そして、下宿までさせてもらって慕っていた先輩と、私の友人も、多くが若い時に
遭難した。
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若いうちの突然の死は、無残である。
肉親の大きな嘆きが、そこにはあったと思う。
今も共に山へ行く友人はこの頃の仲間であるが、このような仲間の死を意識のどこかに
背負い、口には出さずとも互いの共通体験としている。
そうして私たちは、無事にここまでの人生を重ね山へ行くのだ。
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頂上から東を望むと、懐かしい白毛門(しらがもん)が見えた。
本格的な冬山は、ここで味わった。
積雪を踏み分けながらの登山は、体力を消耗する。
厳しい登りを続けてテントを張り、零下の寒さに眠れない夜を過ごして、目覚めた朝は
嬉しい晴れだった。
ピークを踏んだあと、新潟県側に下りた。
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積雪期は、道がなくとも歩けるのが良い。
小さな沢沿いに下ってゆき、だんだんと沢の幅が広くなった頃ちいさな山あいの集落に
出た。
その沢沿いの一軒の家の中に、花嫁さんがいた。
たぶん自分とそう年ごろの変わらないだろう若い花嫁は、うす暗い部屋の中で角隠しを
し、ひっそりと高い椅子に座っていたように記憶する。
あの集落は今もあるのだろうか。
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谷川岳のピークは二つあり、奥の「オキの耳」が高いので、そこまで行ってみる。
目がくらみそうに切れ落ちた尾根を、ピークから覗きこむ。
東尾根である。
12月の、雪が積もり始めた時期に、ここを登ったことがあった。
確かヘルメットをかぶり、ザイルも誰かが持っていたような気がする。
女性で初めてマッターホルン北壁を登った、著名な人と一緒に登ったのだった。
知己はなかったので、誰か友人が誘ったのだろうが、記憶はあいまいである。
あの方はその後、ご無事でいらっしゃるのか? もの静かな方だったが。
(あとで調べたところ、そのあとマッターホルンで亡くなっておられた。上に書いた、
尊敬していた先輩も、女性登山家の草分けとしてネットに出ていた)
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様々な昔のことを思い出す、頂上での時間だった。
回顧は年老いてきたしるしなのだろうか?
しかし、山の自然は昔と少しも変わらない。
いつまでも変わらぬ、その山が好きだ。