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マキシミリアン1世とハプスブルグ家

オーストリアへ旅した時のこと。

ウィーンを離れて、インスブルックという街を訪れた。
飛行機で1時間ほど飛ぶと、段々とチロルの山々が近づいてきて、狭い谷がアルプスへ
向かって登ってゆく、その谷間にインスブルックはある。チロルの州都である。

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友人と二人、行き当たりばったりの観光をしたのだが、ある建物の2階の室内から、
何とも壮麗な構造の教会内陣が見おろせた。

手前に豪華絢爛たる棺、両側には黒い等身大の彫像がズラリと並んでいて、こんな
山の街の教会には似つかわしくない。誰もいないし。
しかも、すぐ下に見えたのに、その時いた建物内からはどんなに探しても行けないのだ。

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何なんだ、これは。
それが、マキシミリアン1世との出会いだった。
いや、墓との出会いでしかなかったのだが、それが、この中世の武人について知り、
関心を寄せるきっかけとなった。

一度外へ出て、「王宮教会」という隣の建物に入ってみる。
すると、あの場所へ行くことができた。
すぐそばで見れば見るほど、圧巻の装飾である。

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これは、15世紀の後半を生きた、ハプスブルグ家中興の祖、マキシミリアン1世の
墓であった。
とはいえ、世界史には疎い私ゆえ、その時にはハプスブルグ家の全体像はよくわからず、
帰国してからのにわか勉強でようやく理解出来たのであるが。

彼が生前築いたこの墳墓には、当地の市民の反対で遺骸を葬ることがかなわず、
別の場所に本当の墓はあるらしい。莫大な借金がその理由だと言われる。


また、近くにある「黄金の小屋根」という観光名所には、市街地を見守る彼と共に二人の
妻が描かれている。そのうち一人の下には小さなフクロウの絵があり、それは、
当時すでに故人であることを示すのだという。


 それが、愛妻マリアである。
彼らは政略結婚という、貴族にとっては当然であった結びつきをしたのだが、
言葉も通じないのに出会った瞬間から惹かれあい、まことに夫婦仲は良かったと
いう。

 マリアは、織物で繁栄していた、フランス東部からベルギー・オランダを統治した
ブルゴーニュ公国の跡継ぎであった。


突進公と呼ばれたマリアの父が若くして戦死すると、その国を奪おうと目論む輩が
虎視眈々と、うら若い跡継ぎ娘を狙い始める。
フランス王はその先頭で、マリアを妻にしてここをフランス領にしようとしていた。
困惑しきったマリアは、遠いオーストリアの、顔も知らぬ婚約者に手紙を書いて救いを
求めた。
しかし、神聖ローマ皇帝とは名ばかりで、財力のないマキシミリアンの父は、軍勢を
集める金銭の工面にも苦労したらしい。
ハプスブルグ家とは、当時そのような家でしかなかった。

幸いにも、駆けつけたマキシミリアンは無事外敵を追い払い、二人はその地で
結婚した。


二人の間に生まれた息子がやがてこの国を引き継ぎ、当時のヨーロッパでもっとも
豊かであった領土を手に入れた。
これが、オーストリアの小さな領主に過ぎなかったハプスブルグ家の、その後の繁栄の
基礎となる。


残念ながらマリアは25才で2児を残して突然亡くなる。落馬による事故死であった。
マキシミリアンは晩年に至るまで、妻マリアがいかに優れた女性であったかを
語っていたという。

 
その後ハプスブルグ家は、戦争と子女の婚姻政策とによって、20世紀初頭まで続く
ヨーロッパ一の王家になっていく訳であるが、その基礎を築いたのは
マキシミリアン1世である。
 娘と息子をスペインの王子王女きょうだいと2重結婚させ、孫娘と孫息子はボヘミアの
王子王女と、またもや2重結婚させることにより、スペインとチェコ・ハンガリーを
手に入れた。 


 この時代のスペインは強大で、やがてアメリカ大陸に植民地を建設し、ハプスブルグ家
は太陽の沈まぬ帝国となってゆく。
エリザベス女王が無敵艦隊に勝利する前夜の時代である。


彼は、広大な領土を手に入れても、そこに住む人々の言葉や文化を統一しようとは
しなかった。そのことは代々受け継がれており、そのような緩やかな政策をとったことが、
長く続く帝国を維持できた秘訣であったかもしれない。


また、中世最後の騎士と言われた彼は、信仰に基づいて約束や信義を大切にし、
これは子孫にも代々受け継がれてゆく。そのために、痛く裏切られたことも再三あったの
だが、それにもかかわらず統治が長く続いていったのは、逆にそのことのためではないか。


 しかし、19世紀になって民族運動が盛んになると、言語がバラバラであったことは
裏目に出る。独立の機運をとどめることは不可能で、20世紀初頭、ついに
ハプスブルグ帝国は滅んでしまうのだ。しかし、700年にも渡り継続した王朝は、
ヨーロッパには他に存在しない。


 チロルは山国で、そこに住む人々は保守的で頑固らしい。
中心街のお店を見ても、華やかなファッションよりも堅実な服が多く、ドイツ的である。
小石をオーブンで温めて袋に入れ、お腹を温める「カイロ」のようなものが
子供用に売られていたが、ホッカイロなんて発想はしないのだろうか。


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短い夏が終われば、雪に閉ざされた長く暗い冬が来る。
不自由な生活にずっと耐えてきた人々。
その中で鍛えられた我慢強さや思索の力は、温帯の海辺に暮らす私たちとは
ずいぶん違っているのではなかろうか。
がっしりした造りの家具はみごとで、数百年経っても狂いのない堅牢なつくりと見えた。
こういう技術が今も継承されているのかどうか、気になるところである。

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家庭で作られた宗教的な装飾品は、優美というより土俗的で、山岳地帯らしい
素朴な信仰心を感じたのだが、残念ながら撮影を忘れていた。


 マキシミリアン1世の暮らした15世紀、いかなる暮らしがオーストリアという山国で
営まれ、その中でヨーロッパに広く打って出る心性が彼によって養われたのだろうか。
 ブルゴーニュ公国へ結婚のため赴いて、その発展ぶりに大変驚いた、という記述が
あるそうだから、その時に飛躍の心が生まれたのかもしれない。

 そうでなければ、この山に囲まれた狭い空のもとで暮らしていて、雄飛の野心が
生まれるとは思い難いのだ。

なんにせよ、このインスブルックで私は大いに心が躍った。
世界の新しい動向などに構わず、自分の暮らしを守り続けているように見える人々。
 白い雪を頂いた山々。
 山に囲まれたこの小さな谷間から、広いヨーロッパに出て行ったかつての英雄。
思いに耽るうち、音もない夜半の雨に通りは濡れて、
窓から見下ろす石畳に、お店の灯りが写っていた明け方の光景。


晩年のマキシミリアンは画家のデューラーを保護した。
そのデューラーの筆になるマキシミリアンの姿。

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そこから伺われるのは、多くの試練や忍耐を経験した人の、はるかに人生の向こうを
見つめている視線である。


手にしたザクロは、「内面の豊かさ」を表すという。