涸沢の紅葉
秋の盛りの涸沢が美しいことは知っている。
しかし非常に混雑するから行くことはないだろう。
長いことそう思っていたのに、巡りあわせから登ることになった。
朝5時半、まだ薄暗いうちに宿を出て、ひらすら歩く。
明神岳のモルゲンロート(朝焼け)を左に見て、梓川沿いを早歩きする。
その辺りまでは快調だったが、登りがきつくなるとだんだんに足が遅くなってゆく。
トシは争えない。きつい。
・
しかし、登るにつれ開けゆく、この谷の美しいこと。
涸沢谷はS字状にカーブしていて、登っていても自分の位置が分からない。
前にある尾根を見つめながら、ただ登るしかない。
しかし、ある時パカっと前をふさぐ景色がなくなり、遠く穂高の峰と青空、
そして赤や黄の紅葉に埋め尽くされた広い谷が見通せる。
・
早朝の日差しはまだ谷底を照らさず、稜線から少しずつ下り降りてくる。
それにつれ、赤や黄色の木々にスポットライトが差すのだ。
ライトはどんどん広がって、遅い私の足取りよりずっと早く、谷底へ到達した。
下から見上げていても、燃える紅葉の広がりで、涸沢のカールが輝いているのが
分かる。
・
ああ、天地は美しい。
青空に突き刺さる涸沢槍のとんがりと、赤くまた黄色いナナカマド、白い雲。
いつまでも山へ来れる私自身の幸福。
・
ヒュッテへぜいぜい登り着き、到着祝いの生ビールを頼む。
4時間かかったんだから、これくらいいいだろう。
遠くに見える蝶ヶ岳のピークと、取り囲む穂高の山々をサカナに、独り飲むのも
今日の幸せ。
・
昨日相部屋だった人が言っていたように、私も飲んでテラスで寝転ぶ。
袖擦りあうも多生の縁、そう言いながら談笑した5人の人は、みんな親切で
気持ちの良い人だった。
・
窓際の私が寒いだろうと、起きて押し入れへ行き、布団を出して掛けてくれた人。
人間は皆、知り合ったばかりの人には優しいのに、込み入った関係になると
憎みあうのだ。
ややこしい人間。
大昔からずっとずっと、愛憎の中で生きるしかほかに出来なかった人類。
この天地の中では、どんなことも小さく思えるのに、一生をつまらないことで
過ごすのはバカよね。
そんなことを考えたのは、この穂高の稜線で命を落とした友人知人のことを
思い出したからかもしれない。
・
アルコールで速度の緩んだ頭で、あれこれ考えるうち、熟睡した。
群青の空と、紅葉の山肌、黒い岩のピークに見下ろされながら、なんて素敵な昼寝!
起きると、さっき見ながら寝たと同じ、明るくキラキラした風景の中。
覚めたら何もない、ではなく現実だった。 ああ、よく寝た。
降りるのはなんとも惜しい。
・
仕方なく靴をはいてリュックを担ぐ。ここで泊まる訳にはいかないのだ。
今晩のヒュッテは、布団1枚に3人の定員と聞いている。
何としても降りて、温泉に漬かってご馳走を食べるのだ。
そうやって完結するのが、大人の山旅ってもんだ。
・
11時にはもう下りを開始したのに、次々と登ってくる人々との離合で手間取り、
上高地に着いたのは夕刻5時前だった。
登りと下り、所要時間が同じだけかかった。いやはや、やっぱり大変な
紅葉見物。
・
でも、素晴らしかった。
とっても幸せだった。 ありがとう、神様。
生きていることを感謝します。