2月を前に
大阪へ行くことがあったので、ついでに奈良を訪ねた。
生駒トンネルを抜けると、景色ががらっと変わったのが分かる。
大阪は混沌とした活気に満ちているが、奈良の町並みには落ち着きがあって、整然とした
秩序のようなものを感じる。
迎えに来てくれた友人の車に乗り込んだら、急に気が変わった。
お寺は後回しにして、上村松篁の美術館へ。
松篁は鳥の絵をよく描いた人で、その為に1000羽以上の鳥を庭に飼育していたと聞く。
そのお子さんの敦之(あつし)も、同じように鳥の絵を描いている。
一度訪ねてみたいと思っていたことを、突然思い出したのだ。
瀟洒な美術館の中は、期待どおり鳥の絵で埋め尽くされている。
絵の中の鳥は、見ればどの種と分かる正確さであって、単なる画材ではなく
愛情を持って描かれており、美しい。
上村敦之の言葉
「鳥たちの行動を本能とせず叡智と捉えて、自然に教えられ導かれて識る世界は
無限に深く広い。 〜中略〜 花鳥画というのは、鳥に己を記し、花に己の思いを
託しえて始めて成立する」(原文ママ)
そうか、なるほど、である。
鳥の写真を撮ることにも、通じているものがある。
特にタカを相手としているとき、私は敬意を抱いて見ている。
自然の中に存在する神を感じつつ、撮影させてもらうのだ。
もちろん、敦之のような境地にはほど遠いが。
さらに松篁の言葉
「牧谿(もっけい)、文正にはまだ及ばないが、近頃漸く牧谿の霊性がわかるようになった」
う〜ん。
その道を極めれば、昔の画家の霊性まで分かるようになるのか。
理解にはまるで遠い境地である。
後刻、唐招提寺まで足を伸ばしたが、ここも素晴らしかった。
何十年、振りである。
金堂の前で見上げる仏像は、丈高く偉大であり、まさしく奈良の仏さま。
鎮護国家、つまり国を救うために作られた仏たちは、平安貴族が浄土へ行きたいと自分の為に
作ったものとは違うということなのか。 迫力がまさっておられると感じる。
建物も含め、すべて国宝という豪華さだ。
おほてらの まろきはしらの つきかげを
つちにふみつつ ものをこそおもへ (会津 八一)
好きな歌だが、残念ながらここで作ったものではないということが分かった。
ぴしりと引き締まった雰囲気の境内を歩いて、一番奥の鑑真和上の墓地へ行く。
瓦を埋め込んだ赤土の塀が続き、 ここまで来ると誰もいない。
失明してもなお、日本へ渡ることを辞さなかった高僧は、森の中にひっそりと眠って
おられた。
厚く茂った苔の青が、黒い木の根に映える。
少し雨が降り出した。
しょぼしょぼと濡れながら疎林の中を表に向かうと、小さな水路には枯れたものと
今から芽ぐむ緑とが同居している。
冬はここでも、終わりが遠くないと告げていた。
もうじき、節分である。